LOGINシンガポール行きが正式に決まった。三か月。途中で一度だけ帰国する予定はあるが、業務次第では動く。 航空券と滞在先の説明を受けた夜、私は景都の部屋へ行った。付き合い始めてから初めて、仕事の用事ではなく「家に行きたい」と自分から言った。 玄関で靴を揃えかけると、景都が「そのままでいい」と言う。「珍しい」「今、靴はどうでもいい」 リビングには飲み物も菓子も用意されていなかった。以前なら、私が座る前に必要なものが全部並んでいただろう。 ソファに腰を下ろし、私は航空券の控えを膝へ置いた。「行ってほしくないって、もう一回言って」 頼んでから、自分でもずいぶん面倒なことを言ったと思った。 景都はすぐには答えず、両手を膝の上で組み直した。「行ってほしくない」 胸の奥が縮む。「毎週会いたい。三か月、画面だけなのは嫌だ。空港まで送って、そのまま連れて帰りたいくらい」 そこまで言ってから、彼は息を吐いた。「でも、行くなとは言わない。帰ってきてとは言う」「それは言って」 今度は私の方が早かった。 景都は隣へ座った。拳一つぶんほど空いているのが可笑しくて、私は肩を寄せる。彼の身体が一瞬だけ固くなり、それからゆっくり力を抜いた。「三か月、長いね」 窓の向こうで、隣のマンションの明かりが一つ消えた。「長い」「帰ってきた時、私が変わってたら?」 景都は少し考え、こちらへ肩を預ける。「また知る」 短い返事だった。「俺も変わるかもしれないし」 シャツ越しに呼吸が伝わる。結婚していた頃にも、同じ肩へ寄りかかったことはある。それでも今は、「行ってほしくない」と言われながら、自分の決めた仕事へ向かえる。 帰る支度をすると、景都は玄関まで来た。靴紐を結んでいる間、背後が静かすぎて振り返る。「何?」「あと何回会えるか数えてた」 思わず笑った。「数えないでよ」 そう言いながら、私も残りの土日を頭の中で並べていた。 廊
恋人になって三日後、シンガポールの店舗テストが正式採用になった。さらに現地から、五日間の立ち会いを三か月の短期プロジェクトへ延ばしたいという話が来る。 販売検証、商品の改良、次期ラインの立ち上げ。商品企画から一人、営業から一人。候補の先頭に私の名前があった。「やりたいです」 部長へ答えた時には、もう決まっていた。景都に相談してから考えよう、とは思わなかった。 その夜、蕎麦屋で条件書を見せる。三か月と聞いた景都は箸を置いた。「行きたいんだね」「うん」「ああ」 それだけなので、かえって落ち着かない。「何か言わないの?」と聞くと、困った顔をされた。 しばらく考えたあと、「寂しい」と言う。 思っていたよりまっすぐで、胸に入る。「毎週会いたい。三か月、画面だけなのは嫌だ」「じゃあ行かないでって言う?」「それは言いたくない」 蕎麦が届く。湯気で一度、景都の顔が隠れた。「本音なら、行ってほしくない。でも、行きたい真帆を止める方が嫌だ」 私はすぐ返せなかった。箸で葱を沈める。 三か月は長い。付き合ったばかりなのに、次の土曜も、その次も会えない。寂しいと思われることは嬉しいのに、それを理由に断れば、あとで自分へ腹を立てるのも分かっていた。「毎日連絡する?」「疲れてたらしなくていい」 景都が一度頷きかけて、言い直した。「でも、できる日はしたい」「私も」 帰宅して、正式条件を机へ広げる。三か月という数字の下には、現地でやる仕事が細かく並んでいる。売場を見たい。客が手に取るところを見たい。その気持ちは景都の顔を思い出しても消えなかった。 カレンダーへ出発予定日を仮入力する。文字を保存したあと、同じ月の土曜がいくつも空白になる。 少し寂しくなり、景都へ〈やっぱり長いね〉と送った。 〈長い〉 すぐ返る。その短さを見てから、条件書へもう一度目を戻した。 しばらくして、景都から〈着いた?〉と来た。〈着いた〉と返し、しばらくして〈三か月、たぶん喧嘩もするね〉と送
恋人になって最初の土曜、景都は待ち合わせの十五分前に来ていた。理由を聞くと、今日は二本早い電車に乗ったと白状した。 予約はしない約束だった。駅前を歩き、空いていた定食屋へ入り、景都は生姜焼き、私は焼き魚を頼む。会計の話は食べ終えるまでしないことにした。付き合い始めた途端、誰が払うかまで新しい規則にするのが面倒だった。定食屋を出た時、会計はきっちり折半した。景都は何も言わず受け取り、私も理由を説明しなかった。以前なら、誘った側が払う、収入が多い方が払うと互いに理由を並べたはずだ。今日はレシートを二つ折りにして財布へしまうだけだった。本屋へ向かう途中、その何も起きなかった会計の方が、付き合い始めた実感として不思議に残った。 そのあと本屋へ寄った。私は文房具売り場、景都は経営書の棚へ行き、三十分ほど別々に歩いた。 レジ前で合流すると、私が持っている青いボールペン一本を見て、「それだけ?」と聞く。「見る時間が楽しいの」 景都はまだよく分からない顔をした。彼は何も買っていない。休日まで資料の棚を見ていたらしい。 外へ出ると雨だった。折り畳み傘は景都の一本だけ。 二人で入ると、案の定、傘は私側へ傾く。景都の右肩が先に濡れ始めたので、柄を掴んで中央へ押した。「真ん中」「真帆が濡れる」「二人とも少し濡れればいいでしょう」 不満そうな顔をしながらも、景都は戻さなかった。駅まで五分ほど、私の左袖にも景都の右袖にも同じような濃い点が増えていく。 屋根が見えたところで指先が触れた。景都が離そうとする。 私はそのまま手を握った。 彼は一瞬こちらを見たが、理由を聞かなかった。握る力も強めない。ただ歩幅が少し遅くなる。 傘を閉じると、二人の間にまた空気が入った。さっきまで触れていた肩が離れ、思ったより物足りない。 構内で私は半歩だけ景都へ寄った。彼は見たが、何も言わない。 本屋で買ったペンを見せると、試し書きをしたいと言う。改札横の小さな記入台で紙を一枚もらい、景都は「軽い」と真面目に感想を書いた。 その文字の隣に、私も同じペンで自分の名前を書く。 事故も離婚も関
付き合い始めても、会社での呼び方は変わらなかった。私は「深見さん」、景都は「水城さん」。二人きりになれば名前へ戻る。その境目を最初に面白がったのは沙耶だった。 海外案件の会議中、景都がこちらを見た回数まで数えていたらしく、終わったあと「恋人なんだから、もう少し堂々としてもいいのでは」と言われた。「仕事中です」「深見さんも同じ言い訳をしてました」 少し離れたところで景都が「言い訳じゃない」と返す。沙耶は笑って、先にエレベーターへ消えた。 帰り道、会社へ付き合ったことを話すかという話になる。景都は隠したいわけではないが、必要のない人に説明する理由もないという。私も同じだった。 番組の時みたいに、関係へ名前を付けた途端、それを人前へ差し出したいわけではない。「じゃあ、しばらくは二人で知ってればいいね」「灯さんは、たぶん知ってるだろ」「顔見れば分かるって言われそう」 駅へ着く前、コンビニの前で足を止めた。恋人になった最初の日らしいことを何かするべきなのかと景都が本気で考え始めたので、私はアイスの棚を指した。 桃のカップを選び、景都はバニラにした。駅前のベンチで食べる。「一口いる?」 景都が自分のスプーンを止めたので、急にこちらまで意識してしまう。「欲しいなら食べれば」 桃を一口食べた景都は、「甘い」としか言わない。「感想それだけ?」 しばらく考えたあと、「もう一口ほしい」と言うので、笑って容器を寄せた。 夫婦だった頃なら同じスプーンを使うことなど数えもしなかった。今は受け渡すたび、指先の位置まで気になる。知っている身体なのに、関係だけが新しい。 景都が溶けかけた桃を最後まで食べた。ベンチの近くを学生が三人通り、笑い声だけが残った。景都はバニラの蓋を折って小さくし、空いた容器へ入れる。私は桃の容器をその上へ重ねた。二人分のごみが一つになったくらいで、恋人らしいと思う自分がおかしい。景都へそう言うと、「そういうものなんじゃないか」と真面目に返され、また笑った。 駅へ向かいながら、ふいに「恋人なんだよな」と言う。「二人の時な
翌朝、昨夜と同じ喫茶店で待ち合わせた。景都は先に来ていた。ブラックコーヒーの横に空の小皿があり、朝食はまだだという。 私は一昨日パン屋で買ったクリームパンをバッグから出した。半分だけ残して冷蔵庫へ入れていたせいで、少し固くなっている。「食べる?」 景都は受け取り、文句も言わず一口かじった。 昨夜、最後まで出なかった言葉を言うために来た。分かっているのに、カップの取っ手を指でなぞって時間を使う。「前の暮らしに戻りたいわけじゃないんだ」 景都がパンを置く。「奥さんだった頃へ戻りたいわけでもない。今の私のままで、景都と一緒にいたい」 そこまで言うと、もう逃げにくかった。「だから……私と付き合ってください」 入口のベルが鳴り、新しい客が笑いながら入ってくる。コーヒーマシンが大きな音を立てた。店の朝は何も変わらない。 景都だけが数秒動かなかった。「聞こえた?」「聞こえた。……俺が言うつもりだった」「遅い」 掠れた声なのがおかしくて、少し笑った。「昨日も言おうとした」「私が先に言いたかったの」 景都がようやく息を吐く。「俺も、真帆と付き合いたい」 大げさなことは起きなかった。コーヒーは少し冷め、冷やしたパンは硬いままだ。それでも、胸の奥に詰まっていたものだけがほどけていく。 景都がテーブルへ手を置いた。こちらへ伸ばしてはこない。 私は指先をその手へ重ねた。夫婦だった頃には数えなかった程度の触れ方なのに、今はその距離を自分で詰めたことが分かる。「今日から?」「今日から」「記念日、覚える?」「ああ」 即答なので笑う。 景都が残りのクリームパンを食べながら、「硬い」と今さら言った。「一昨日のだから」「それ先に言えよ」「食べたあとで言っても遅い」 注文した追加のコーヒーが届く頃には、さっきの言葉がもう少し現実になっていた。恋人になったからといって、景都の顔が
翌日の夕方、景都と駅前で会った。店は決めず、歩きながら探した。結局入ったのは以前一度だけ使った喫茶店で、私は奥の席へバッグを置いた。 昨日の続きを話すために来たのに、注文を終えると急に喉が狭くなる。景都は何も促さず、コーヒーの湯気が薄くなるのを待っていた。「私、景都が好きだと思う」 言ってから、自分で逃げ道を残した言い方だと分かった。 景都も気づいたらしい。「思う、なの?」と聞く。「今そこ突っ込む?」 少し間を置いて、言い直した。「……好き」 景都は目を伏せた。笑ったのかと思ったが、口元は動いていない。「嬉しい」とだけ言う。 そこからは、付き合ったら何が変わるのかという話になった。復縁という言葉はまだ嫌だ。前の家にも戻りたくない。結婚や同居まで、今ここで続けて考えたくない。 景都は反論せず聞いていた。「俺は、真帆が誰と会ってるか知りたくなると思う」「全部教えろって言う?」「言わないようにする」「できる?」 彼はしばらくカップを見てから、「かなり努力する」と言った。 笑ってしまう。私も、黙っていなくならないようにする。たぶん、と付けたら、そこは突っ込まれた。 コーヒーミルの音で会話が途切れる。店員が隣のテーブルから皿を下げていく。私は水を飲んだ。「付き合ったら、何が変わるんだろうね」 景都はすぐには答えなかった。「会いたいって言うのに、理由がいらなくなる」 その言葉が、思っていたより深く入った。 これまで会うたび、事故の確認、仕事の相談、昔の話と、必ず理由があった。用事がなければ連絡してはいけない気がしていたのは、関係に名前がなかったからだけではない。欲しいと言うことそのものを、ずっと怖がっていた。 恋人という名前を付けたからといって、未来まで順番に決まるわけではない。泊まる日も、住む場所も、結婚するかどうかも、その時になってまた考えればいい。 そう思えたところで、まだ最後の一言だけが喉に残った。 店の窓の外では、自転車が何台か続けて通っ